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闘病記録〜高校生活から現在まで〜

 

その後、高校生活そして卒業

5月初め

高校3年となり、クラスが変わっていた。

知っている人もいたが佐久間氏や三森氏と

違うクラスになってしまった。

なんていったら良いか、とても不安になった。

自分のクラスなのに、

部屋に入るのが、とても

恐かった。

誰!って視線が、恐かったから。

 

2年の時の友達の近くにいつもいた。

2日に1度、病院で点滴をうけに行き

午後に授業に通いに行く。

この時には、放射線治療の副作用で、舌の表面のブツブツ(味を感じる所)がなくなり、味覚が変になる。

(退院前に、面白いほど味がしないのでキムチを

たらふく食べていたら、辛いものが敏感になってしまった)

 

口の中に水泡ができるようになる。先生はつぶさない方が

良いと言っていたが、水泡ができると口の中に違和感が

するので、たまらなく自分で鏡をもち、楊枝で水泡を

1つ1つつぶしていた。ペットボトルや缶の蓋が

自分の力では、あけられなくなる。

ご飯を食べるときに、「あっ!」って思っては、楊枝と鏡

を持っていた。手鏡はいつも携帯していた。

 缶のタブを開けるのも、手鏡の裏であけていた。時には

シャープペンシルで開けていたときもある。

6月

お風呂に入っていると、ふと自分の爪がふやけているのに

気がつく。奥の方が(ささくれができる所)完全に浮いてて

爪がふやけちゃったって、家族のみんなに見せびらかしていた。両手両足の爪の色が変わる。

前から、爪がはがれると聴いていたので特に驚きもしなかった。自分の中では「貴重な体験だ!」と思っていたが

周りでは違ったらしい。これも、放射線治療の副作用です。

足の親指の爪が根元から取れそうだった。げぇ〜と思い

ながら、自分ではがす。綺麗にとれた。「変な気分だ」

7月

だんだんと、目が開けられなくなる。開けようとすると

痛みが走り、帰りの自転車では感覚のみで帰った。

がんセンターの眼科に通うようになる。

目やにがよくでる。口内炎がひどくなる。歯が溶け始める。

唾液が出る事により、口の中が中性に保たれます。

唾液が出ないと、口の中が酸性のままとなり歯が溶けてしまいます。キシリトールガムなどを食べると良いでしょう。

がんセンターの眼科にいったら両目結膜炎と診断。

目薬を処方される。(4種類ぐらい。)

この時に喉のあたりまで、全身に放射線があたっていたので

唾液と涙をつくる所がせまくなってしまった。

涙はほこりから目を護るバリアーです。涙の量が激減すると

目に激痛が走り、目を開ける事が困難になります。

8月

顔に、炎症ができる。(パンダみたいな)

さすがにへこむ。けどしょうがないと思い、

気にせずに高校に通う。やっぱり学校では居場所が

見つからない。

これは、肝機能が悪くなってしまうと顔に炎症が

出るみたいです。

さすがの私でもへこみました。

9月

いつもどうり、高校へ通う。

休み時間に、ふと違うクラスの人が入ってきて 窓際に

行くのが見えた。次の瞬間、耳に入ってきた言葉に

ここがどこか、疑った。「ゾンビー今日は来てるジャン。」と

この言葉で私は、高校へ行く事をやめてしまった。

「何も知らない人にとっては、私はゾンビーにしか見えないんだ。」ここは高校か?とても痛かった。心が。

ここで学ぶ事はなにもないな!と見切りをつけて…

 

薬も何も飲まなくなった。っていうより、何もみえなく

なった。

 この頃、「パラサイト イブ」の漫画本を見ていた。

何となく、似ているなぁなんて思った。

結構、学校へ行くのも楽じゃなかったので

午前中は10時まで寝てて、日の当たる場所でボ〜っと

してて、午後の下校時間を狙って、近くの本屋へ友達を

張っていた。そんな生活が長く続いた。

10月

薬を飲んでいないのを、主治医にバレた。肝機能のデータが

ALP1600を超えていた。

「このまま君が薬を飲まなければ、死ぬよ!」

と主治医は激怒。この時、目がさめた。

何のために治療してきたんだろう。

誰のために生きているんだろう。

なぜ、私はいきているんだろう。

そんな事を考えていた。

12月

大雪だった。さすがに、この雪だと奴らもかったり〜とか

いって、こねぇ〜だろうと思い、学校へ行く。

予想道りだ!制服着るのも久しぶりだ。

クラスの人の半数は休みだったので、楽しかった。

1月

神社へ、初詣に行った。

この時の願いは「再発しませんように!」。

佐久間氏の家にそのまま泊まりに行く。

朝日の出を見て、家へ帰る。

この夜、鉄拳3のキングのローリングクレイドルを

マスターする。この時がキングの絶頂期だ!

 

学校が始まる。この日は文集を作ることになった。

どんなのにしようかなぁ〜1ページではとても語りきれない

し、かといって高校生活で一番の思い出といったらやっぱり

闘病生活になってしまう。(10歳ぐらい歳をとちゃうぐらいの体験だから)悩んだ結果「空白の1年間」という題名に

なった。(暗すぎる)

やっぱり、高校3年生の時に学校へ行った日数が75日

だったから。今思うと、もったいないことをしちゃったなぁ

なんて思います。

 やはり、半ページでは私の体験は全然あらわせません

でした。なんていったて、発病から骨髄移植まで書くので

1万650文字もあるんだから!

3月

吉川高等学校を卒業する。

校長先生が私のことを触れてくれたので、とてもうれしかった。嫌な事も、このことで帳消しかなぁなんて思う。

文集やアルバムをもらって帰る。

高校の卒業アルバムは見たくない一品だ。

顔の炎症ができているので、アルバムを封印する。

文集の自分の奴を読んでみた、何が何だかで封印する。

5月

寛解1周年。目と口それに皮膚に肝機能

目はコンドロン点眼液なしでは、日常生活ができないし

口内炎もやっと、醤油が大丈夫になった。他の調味料は

全然ダメ。はっきり言って痛すぎる。

顔の炎症も変わりがなく、赤いし

爪は元には戻らない。腕とかもカサカサだ。

これから、私はプー太郎生活に入る。

病院にも、1週間に1回。小児慢性疾患の手帳があった

ので、治療費や薬は公費で何とかなった。

この時、18歳。

 

 

プー太郎生活の始まり

1998年

週1回の通院。

血液科、口腔外科

1ヶ月に一回、がんセンターの

皮膚科、眼科へ通う。

ここから、歯医者に通い始める。

私は、ムチャクチャ歯医者が嫌いだ。

でも、口の中がシャレになってないので

しょうがない。

 

前歯の仮歯を作った

かみ合わせが だんだんなくなってきた。

 

顔の炎症は、なぜなったのかが わからなかった。

皮膚科に通うのをやめる。

顔の炎症は、結構厳しいものだ。バイトの面接を

落とされる。1回目の挑戦!

 

奥歯を5本抜歯。スースーするし、親知らずを取る時

「バキバキッ!」ってなった。

痛くはないが、あごがちょっと疲れた。

かみ合わせがきつくなってきた。

歯もだんだん溶けてくるし、ちょっとヤバイかも。

 

奥の歯茎が腫れて、歯が見えなくなった。

これは、なんだか悪い歯の例より悪いかも知れない。

辛いものが敏感になっていた。

1欠片の唐辛子でも、痛くってしょうがない。

 

気がついたら奥の方の腫れていた歯茎が気にならなくなって

いた。手で奥の方を探ってみると、黒いものが?

しかも膿んでいる。腫れていた歯茎が腐っていた。

ちょっとビビッタ。

毎日痛いせいか、その痛みが普通の感覚になっていた。

慣れとは恐いものだ。

まさか腐るまで気がつかないとは思わなかった。

腐った所をとると、下には新しい歯茎があった。

 

両親と回転寿司を食べに行った。

マグロの赤味を食べたら(もちろんさび抜き)

喉につまさせてしまった。詰まると、飲み込もうとすると

「ぎゅるる」って音がした。さすがにやばいと思った。

吐こうとしても吐けないし、すごい気持ちが

悪かった。最後は吐けた。

 

熱が下がらなくなり、入院する。

一週間ぐらい。佐久間氏に電話し、愚痴を聞いてもらった。

「おれ、ここから飛び降りるかも?」って。

今、思い出してみるとかなり厳しい事をいったなぁ!

佐久間氏ごめんね。そしてありがとう。

なにも言わずに聞いてくれて!

看護婦の原田さんに、愚痴を言ってしまう。

「死んだ方が楽だったかもしれない。」って!

この時は、何も考えられなかったと思います。

移植後の副作用が日に日に出てくるから。

だんだん体が壊れていくのがわかるから。

1999年

1月元旦

毎年恒例の神社のお参りに行く。

この時のお願いは「再発しませんように!」と

「あわよくば素敵な恋が出来ますように!」でした。

この年から、佐久間氏と行く事が恒例となった。

やっぱり帰りはお泊りで日が出るまで、ゲームを

やってました。

初日の出がでたら、土手に行って叫ぼうと言う事に

なったのだが、佐久間氏は爆睡。

どうしようか迷って、その日は仕事だったので

起こさないで、自分の家に帰りました。

 

この年は、絵にはまる。イラストボードを買ってきて

よく、絵を書いていた。

書きたい絵をまず拡大コピー そしてイラストボードに

貼り付けて、ペンでなぞっていく。

なぞり終わったら、コピーした紙をとって

イラストボードを光にあてる。そうすると、絵が浮かんで

くるので、それをなぞる。そして、色を絵の具で塗れば

完成。そんなやり方で書いていた。

 

兄弟によく、「俺が食わせてやってるんだから」って

いわれるようになる。そういわれるたびに、私は

バイトの面接にいった。バイト先ではいつも決まって

「がんばって治して」だった。

兄弟や母は、私のことを「病気というのに甘えている」

「もう治っているのに、家でゲームばっかりして」

そんな風にしか考えてないようだった。

こうゆう風に言われるたびに、自分が情けなくなった。

病気になる前は、バイト代の中の5万を家に入れていた。

バイトの先輩は15万中の3万、私のバイト代は7万だった。

バイト代全部取られた事もあった。

この時はさすがにキレた。母には「授業代とか返せ!」

って言われた事もある。この病気にならなかったら

もう、この家にはいないだろうと思う。

(その入れていたお金が何に使われたかは書かないで

おこう。あの時のことはもう忘れたい)

 

郵便局の募集に応募する。

埼玉大学へ試験を受けに行った。

少ないと思っていたが、行って見るとムチャクチャ

多かった。臨時バスが出るほど!

結果は落ちた。けど私は、結果よりもそのプロセスが

大事だと思います。一歩進めた気分がしました。

まだ、社会復帰ができるって思えました。

 

口腔外科へ行くのをサボってしまった。

 

一度サボってしまうと、なかなか行く事が出来ない。

松木歯科を紹介される。

この時は、断った。

 

佐久間氏 山田氏と一緒に夏の旅行を計画する。

当初は「富士山登頂」だった。

さすがに私は無理だろうと思っていたが

富士山に決定。まぁ、なるようになるだろうと思った。

計画日に大雨が降ったので、行き先を筑波山へ変更する。

正直、ほっとする。

 山でのルールは、あいさつです。道りすがりの人との

挨拶が気持ちよかった。無事登頂!

 

自転車からコケて、左腕の骨にひびが入る。

コケたあと、佐久間氏の家に遊びに行く。

餓浪伝説系をやっていて、最初は無理だと言ったが

「こんなので折れるわけないだろ?」と佐久間氏。

私はギースを使っていた。

技を出すたびに、左がビリビリけど

レイジングストームを出せたのが、奇跡だった。(笑)

 

全治1ヶ月だった。(笑)

朝起きると、左腕が固まっていた。

自分では、腕を伸ばす事が出来ない感覚です。

移植後は、骨がスカスカ(骨粗鬆症)になってしまう

症状です。

 

佐久間氏にスキーを誘われる。

会社の人に、空きができたそうだ。

 

視界がゼロだった。っていうか吹雪いていたから恐かった

思うように体が動かないし、ドライアイになってしまった為

目も開けられない状態。目薬も固まっちゃうしピンチ!

午後は別行動をさせてもらった。現役までは感覚を

もどした!

 

3日間、全身筋肉痛!1日目は動けなかった。

普段から動いてないせいか、前日のスキーは

いつもの20倍ぐらい動きました。

なって当然かも。

 

松木歯科へ通うように勧められる。

小児慢性疾患が効くというのが、行く決め手だった。

白血病による、歯の損傷なので小児慢性疾患が効きました。

歯の治療は公費でまかなわせてもらいました。

2000年

毎年恒例の神社の初詣!やはり佐久間氏といく。

帰りはやはり、初日の出ゲーム!

去年できなかった、土手での叫びを実行する。

とても気持ちがよかった!

 

成人式へ行く。

何気に、タイムカプセルを掘れると期待していたが

どうなったんだろう?その中のテープに「20歳になった

私へ」と言う題で、メッセージをいれました。

「20歳の私へ、はたちになりどうなっているかわかりませんが、がんばってくださいね!」と入れました。

 自分にまで、励まされていたので できれば聴きたかった

です。

成人式、すごく緊張しました。

何だかみんなかわったなぁ〜って「浦島太郎の気分でした」

人の多い所はめったに行かないので、すごく苦しかったです

はじの方で座りながら、ジュースを飲みまくりました。

気を使ってくれる人もいましたし、友達にも逢えたから

行ってよかったです。私が白血病であることは、中学時代の

友達には言っていませんでした。だから、見た目は

アトピー性皮膚炎!もうそれでいいやと割り切ってました。

 

姉が結婚をする。

痛い想いをしてまで、私を助けてくれた姉には

幸せになってもらいたいものです。

 

眼科へ通うのをやめ、血液科で目薬を出してもらう。

1週間でコンドロン点眼液を7本

1日一本ペース。点眼はもう、プロ級になった!

多いと思いますが、これでも我慢してです。

放射線による、涙液分泌低下症になってしまったので

涙の大切さが身にしみるほどわかりました。

涙が出ないと、目がとても痛くなります。

目薬をつけると、痛みがなくなるん

 

歯医者で、総入れ歯を作る。

まだ、歯茎は真っ赤!小児慢性疾患が効くうちに作った

方が良いという事になったので。

 あと、はやく噛めるようにするため。

はっきり言って、シャレになってなかった。

口内炎を抑える薬が体にあわなくて、なかば強引に

作りました。かなりしみるし、唇のはじが切れるほど

やったので厳しかったです。

 

20歳で入れ歯かよぉ~っとへこむ。

20才で歯は1本も残らなかった。

歯はとても大切なので、しっかりプラークコントロール

しましょうね!

 

満20になり、小児慢性疾患が切れる。

保健所に継続できないか、話を聞きに乗り込む。

そういうケースがなかったため、継続は無理との事。

電話でもアタックしてみたが、「お気の毒様」

正直、ぶちきれた!(怒)

3月

医療費が15000円だった。いつも公費だったので

いざ、値段をみてビビる。

採血して、診療して1週間ぶんの薬をもらって

帰るのに2万近い。何とかできないか相談するが

無理との事。「別の市では継続する事も出来るが…」

とか言っていたので役所に乗り込む。

 

第1回 市役所突入計画発動!

目的は「小児慢性疾患の継続」

保険の担当の人と話をした。

全部話した結果、市では出来ないと言うことだった。

納得がいかなかったが、一時退散する。

結果、敗北。

 

小児慢性疾患手帳を保健所に返還する。

20才でいきなり社会に放り出された。

ドライアイや口内炎で、日常生活すらままならない俺に

どうしろと?どうする事も出来ない自分が情けなくなる。

 

第2回 市役所突入計画発動!

目的は「特定疾患への格上げ」

ならば、特定疾患ならどうだと担当者とお話する。

結果は敗北。昔は、特定疾患にあったのだけど

骨髄移植があるので、削除されたとのこと。

帰りにかんがえた!

「骨髄移植は誰しも受けられる治療法じゃないんじゃないか?」って。せめて、遺伝子治療が確立するまで

待ってもらいたかった。市役所に不安を抱く。

 

熱が38℃をキープして下がらなくなった。

なんど解熱剤を使っても、熱が下がらない。

担当医に電話をし、入院する事になった。

 

入院する日に、佐久間氏が遊びに来ていて ビリヤードを

やっていた。(ゲーム)私は、38℃ぐらいなら

頭がボーとするくらいで、体には何も出なくなりました。

(慣れって奴ね!)けど、1週間も気がついてみれば

出ていたので、主治医に電話したんです。

すると、明るく「じゃあ、今来てね!」と一言。

へ、入院?マジ?ってな感じで病院に行きました。

 

入院!

点滴中、赤い斑点がぽつぽつと出てくる。

時間がたつにすれ、体全体までなった。

これもGVHDとの事だった。

 

口の中が、カビで一杯になった。

初めは、小さな白い点だったのが翌日になると

口の中が真っ白!正直ビビった。

 

原田さんに会った。その時、前に愚痴ってしまった事を

聞いてきた。「まだ、死んだ方がよかったんでしょ!」と。

原田さんはきっと、助からなかった人たちを一杯見てきているから、私が言った言葉は許せなかったんだとおもいます。

それが痛いほどわかったから、「生きているほうが幸せです」

って、返事を返しました。原田さん、ごめんなさい!

奥歯の鋼を取る事になり、口腔外科へ呼ばれる。

口の中がカビだらけで、なにも食べれなくなってしまったのと、舌を傷つけてしまうからです。

 無理やり口をこじ開けたので、もの凄く痛かったです。

1週間入院をし、洗濯や身の回りのことは自分でやっていました。

 退院の日、両親がこれないとの事なので電車で帰ることに

しました。着替えがなかったので、パジャマとスリッパで

家に帰れるか、検証!ちゃんと帰れました。

 

同じ部屋の人に、「目の方は障害者保険で何とかなるんじゃないの」っていわれる。退院したらもう一度行ってみよう

と、おもいました。

 

第3回 市役所突入計画発動!

目的は「障害者手帳について」

まさか、市役所にまた行く事になるとは思わなかった。

話を聞くと、「手や足がなくなっていなくては、手帳は

むり」と事。障害者にもランクがあると聞いていたので

その説明すらなかった。日常生活にまで影響するのに

なにもしてくれない。市役所の仕事って何だろう?

コケたら、折れてしまう腕なんて…とも思ったが

やめておこう。もういいや!と見切りをつける。

 

保険のシステムがさっぱりわからない。

松木歯科は、ちゃんと小児慢性疾患の継続をやってくれているのに、なぜにガンセンターはできないの?

歯科のお金は誰が払っているの?わからないことだらけだ!

歯医者さんは継続してるのに、OO市ったら!

正直、市役所や保健所は嫌がっているみたいだ!

 

 

3月から、内職を母とやっていた。

梅酒の蓋つくり!なかなか面白かった。

半年ほど続けた。

内職は、量にかぎりがあるため色々とやることが

かわってくる。蓋つくりが1番楽しかった。

 

昼にやっていた、「奇跡の人」というのが、名作劇場で

やっていた。内容は、目や耳が生まれたときから聞こえなく

ワガママし放題で育った子供に、物や言葉を教える。

というストーリだった。

それで触れていたのが「指文字」これは覚えた方が

いいかもしれないな、と思い「手話」を勉強し始める。

指文字はマスターした!手話は、もうちょっと

かかりそう。

 

また、プー太郎に戻る。

全部終わると、仕事も終わり!

 

外来が2週間に1回になる。

目薬も14本。これでも足りないくらいだ!

保険の検査官にクレームがつく。

「目薬を出しすぎではないか?」と

私からしてみれば、目薬がなければ外はおろか

家ですら、満足に歩けないだろう。

そのくらい「ドライアイ」は進行しているものだった。

 

歯の神経をすべてつぶし終わる。

歯の治療に3年かけてしまった。まぁいいや。

これで、「無神経男」になってしまったわけだ!

2001年

毎年恒例となった神社のお参りに行く。

世紀越えをしたのだが、あまり特別ってな感じじゃなかった。

初日の出がでるのが遅かった。

寒いし出ないしでいらいらしたが

家に帰るときに光を浴びたのでよかった。

 

主治医に「慶応大学病院の小川先生」を進められる。

ドライアイの権威です。

今まで使っていた「コンドロン点眼液」が中止

ドライアイには、まずいらしい。

この時、ドライアイと診断され角膜も傷ついている

とも言われた 。

「目の標本を取りたい」言われたが、あまりに痛そうな

やつだったので「勘弁して!」と拒否しました。

「まぶたの裏側を1ミリ1ミリの正方形に切開するんだけど、5分ぐらいの手業だから」だそうだ・

 

血清点眼をつくる。

血清点眼とは、自分の血液を分離し 血清を取り出して

その血清を何倍にも薄めたもの。

涙に近い液体だそうだ。小川先生開発!

おかげで、目薬を少し手から離してもいいぐらいに

回復した。(トイレに行く時とか!)

 採血を6本取るので、手がしびれる。

 

 

眼科に親がついて来た。

小川先生にストレートに「治るんですか?」と質問

その質問に、先生はこれは治りません!と返す。

まったく、何を質問してるんだ!と思った。

けれど「日常レベルまでは、回復します。」といって

くれたので、まぁ、日常レベルまで戻るんだったら

いいかぁとおもった。

この4年間、目はかなりやばかった。

朝、起きると目が乾いていて まぶたがくっついてしまう。

なので、自分の手でまぶたをこじ開けるのが日課。

だから、寝起きは最悪だった。

 朝起きると「ぎゃ〜って」叫ぶぐらいの威力はあると

思う。毎日がその調子だから、慣れとは本当に恐いものだ。

けど、慣れがなければ私は生きてこれなかっただろう。

 

兄がパソコンを買ったので、仕事に行っている時を

ねらって、使いまくっている。

最初は全くわからなかった。どこが電源?ってな感じで!

少しずつ、わかってきた。

 

インターネットで同じ病気を検索!

初めに見た人は、全く同じ病気の人ですでに亡くなっていた。

げっ!っと思いました。

この時初めて、同じ病気の人と触れたんだから。

 

掲示板にカキコ(書き込み)をはじめてする。

親切にも、お返事をもらえた。

今まで、この病気で相談できる人はいなかったから

自分で解決するしかなかった。だから眠れない夜も

数え切れないほどあった。けれど睡眠薬は極力使わなかった。

だから、大抵の事は考えたと思う。

マルクとかルンバ―ルとかで通じる人って

いなかったので、とてもうれしかった。

この時、慢性の治療と急性の治療法が かなり違うのに

気がつく。

 この病気は普通の人には重い話だと寛解中何度も思った。

ここでは、その話が普通に聞いてくれるし 時には

アドバイスをくれる事もある。

 

ネット上での、メリットとデメリットがあることにきずく。

メリット

     自分の不安や悩みを聞いてくれ、時にアドバイスなども

くれる事もある。

     ここでは、病気の話が重くない。

デメリット

     人を傷つけてしまったり、傷ついたりする。

     医師への疑惑、病院への不安が生まれる事もある。

 

 

私は、医師ではないし医学的勉強もしていない。

私が教えられるのは、経験やどんな気持ちで立ち向かうか

どんなことを経験し、私みたくならないように警告して

あげることぐらいです。

 病気は、医師があなたにとって1番何が良いのかを決め

看護婦があなたのサポートをし、あなた自身の意思によって

初めて、治療っていえるんです。

 どんなに高いお金を払っても、どんなにいい薬を使っても

あなたの「治そう!」って意思がないと、やっても無駄

なんです。そのための「告知」だと思います。

 私は、50%って言われたけれど主治医がそこまで

助かる確率を上げてくれたんだと思います。

主治医、看護婦、薬剤師、ソーシャルワーカー、栄養士、

そしてあなたの連帯によって、50%だったものが

60、70と上げてくれるんだと思います。

 癌だからってあきらめないで!やるだけやってみようよ

それでも、ダメだった時は「私は生きた!」って胸を

張って逝けるから。死は恐いと思うし、私も恐かった。

何も見えないときもあった。

けれど生きることが難しくなって、初めて「生きてる」って

形が見えると思います。例え逝ったとしても、それは

「負け」じゃない。むしろ「勝った」というべきだ!

本当の負けは、自分の心を閉ざしてしまい、なにもしないで

逝くことだと思う。

 これが、私の信念です。

信念は人それぞれあると思います。それを見つけ出す機会が

こうゆう「病気」なんじゃないかなぁ〜なんて思います。

5月

私の経験したことをHPとして残す。

 

ふと、何か形に残したいなぁ〜と思い作り始める。

 

 

HP完成♪

始めはページが繋がらなくて、考えさせられたけれど

色々とやっている内にページも繋がってなんとか

形になった。気がついた人もいるかもしれないが

HPのTOPにカウンターが入れられなかったのは

妥協しました。だから掲示板の所にカウンターがあるので

入ってもらえるとありがたいです。(爆)

 

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