<A HERF=http://www5c.biglobe.ne.jp/~akihiro>闘病記録2</A>
闘病記録〜高校生活から現在まで〜
その後、高校生活そして卒業
5月初め |
高校3年となり、クラスが変わっていた。 知っている人もいたが佐久間氏や三森氏と 違うクラスになってしまった。 なんていったら良いか、とても不安になった。 |
自分のクラスなのに、 部屋に入るのが、とても 恐かった。 誰!って視線が、恐かったから。 |
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2年の時の友達の近くにいつもいた。 2日に1度、病院で点滴をうけに行き 午後に授業に通いに行く。 |
この時には、放射線治療の副作用で、舌の表面のブツブツ(味を感じる所)がなくなり、味覚が変になる。 (退院前に、面白いほど味がしないのでキムチを たらふく食べていたら、辛いものが敏感になってしまった) |
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口の中に水泡ができるようになる。先生はつぶさない方が 良いと言っていたが、水泡ができると口の中に違和感が するので、たまらなく自分で鏡をもち、楊枝で水泡を 1つ1つつぶしていた。ペットボトルや缶の蓋が 自分の力では、あけられなくなる。 |
ご飯を食べるときに、「あっ!」って思っては、楊枝と鏡 を持っていた。手鏡はいつも携帯していた。 缶のタブを開けるのも、手鏡の裏であけていた。時には シャープペンシルで開けていたときもある。 |
6月 |
お風呂に入っていると、ふと自分の爪がふやけているのに 気がつく。奥の方が(ささくれができる所)完全に浮いてて 爪がふやけちゃったって、家族のみんなに見せびらかしていた。両手両足の爪の色が変わる。 |
前から、爪がはがれると聴いていたので特に驚きもしなかった。自分の中では「貴重な体験だ!」と思っていたが 周りでは違ったらしい。これも、放射線治療の副作用です。 足の親指の爪が根元から取れそうだった。げぇ〜と思い ながら、自分ではがす。綺麗にとれた。「変な気分だ」 |
7月 |
だんだんと、目が開けられなくなる。開けようとすると 痛みが走り、帰りの自転車では感覚のみで帰った。 がんセンターの眼科に通うようになる。 目やにがよくでる。口内炎がひどくなる。歯が溶け始める。 唾液が出る事により、口の中が中性に保たれます。 唾液が出ないと、口の中が酸性のままとなり歯が溶けてしまいます。キシリトールガムなどを食べると良いでしょう。 |
がんセンターの眼科にいったら両目結膜炎と診断。 目薬を処方される。(4種類ぐらい。) この時に喉のあたりまで、全身に放射線があたっていたので 唾液と涙をつくる所がせまくなってしまった。 涙はほこりから目を護るバリアーです。涙の量が激減すると 目に激痛が走り、目を開ける事が困難になります。 |
8月 |
顔に、炎症ができる。(パンダみたいな) さすがにへこむ。けどしょうがないと思い、 気にせずに高校に通う。やっぱり学校では居場所が 見つからない。 |
これは、肝機能が悪くなってしまうと顔に炎症が 出るみたいです。 さすがの私でもへこみました。 |
9月 |
いつもどうり、高校へ通う。 休み時間に、ふと違うクラスの人が入ってきて 窓際に 行くのが見えた。次の瞬間、耳に入ってきた言葉に ここがどこか、疑った。「ゾンビー今日は来てるジャン。」と |
この言葉で私は、高校へ行く事をやめてしまった。 「何も知らない人にとっては、私はゾンビーにしか見えないんだ。」ここは高校か?とても痛かった。心が。 ここで学ぶ事はなにもないな!と見切りをつけて… |
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薬も何も飲まなくなった。っていうより、何もみえなく なった。 この頃、「パラサイト イブ」の漫画本を見ていた。 何となく、似ているなぁなんて思った。 |
結構、学校へ行くのも楽じゃなかったので 午前中は10時まで寝てて、日の当たる場所でボ〜っと してて、午後の下校時間を狙って、近くの本屋へ友達を 張っていた。そんな生活が長く続いた。 |
10月 |
薬を飲んでいないのを、主治医にバレた。肝機能のデータが ALP1600を超えていた。 「このまま君が薬を飲まなければ、死ぬよ!」 と主治医は激怒。この時、目がさめた。 |
何のために治療してきたんだろう。 誰のために生きているんだろう。 なぜ、私はいきているんだろう。 そんな事を考えていた。 |
12月 |
大雪だった。さすがに、この雪だと奴らもかったり〜とか いって、こねぇ〜だろうと思い、学校へ行く。 |
予想道りだ!制服着るのも久しぶりだ。 クラスの人の半数は休みだったので、楽しかった。 |
1月 |
神社へ、初詣に行った。 この時の願いは「再発しませんように!」。 佐久間氏の家にそのまま泊まりに行く。 朝日の出を見て、家へ帰る。 |
この夜、鉄拳3のキングのローリングクレイドルを マスターする。この時がキングの絶頂期だ! |
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学校が始まる。この日は文集を作ることになった。 どんなのにしようかなぁ〜1ページではとても語りきれない し、かといって高校生活で一番の思い出といったらやっぱり 闘病生活になってしまう。(10歳ぐらい歳をとちゃうぐらいの体験だから)悩んだ結果「空白の1年間」という題名に なった。(暗すぎる) |
やっぱり、高校3年生の時に学校へ行った日数が75日 だったから。今思うと、もったいないことをしちゃったなぁ なんて思います。 やはり、半ページでは私の体験は全然あらわせません でした。なんていったて、発病から骨髄移植まで書くので 1万650文字もあるんだから! |
3月 |
吉川高等学校を卒業する。 校長先生が私のことを触れてくれたので、とてもうれしかった。嫌な事も、このことで帳消しかなぁなんて思う。 文集やアルバムをもらって帰る。 |
高校の卒業アルバムは見たくない一品だ。 顔の炎症ができているので、アルバムを封印する。 文集の自分の奴を読んでみた、何が何だかで封印する。 |
5月 |
寛解1周年。目と口それに皮膚に肝機能 目はコンドロン点眼液なしでは、日常生活ができないし 口内炎もやっと、醤油が大丈夫になった。他の調味料は 全然ダメ。はっきり言って痛すぎる。 顔の炎症も変わりがなく、赤いし 爪は元には戻らない。腕とかもカサカサだ。 |
これから、私はプー太郎生活に入る。 病院にも、1週間に1回。小児慢性疾患の手帳があった ので、治療費や薬は公費で何とかなった。 この時、18歳。
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プー太郎生活の始まり
1998年 |
週1回の通院。 血液科、口腔外科 1ヶ月に一回、がんセンターの 皮膚科、眼科へ通う。 |
ここから、歯医者に通い始める。 私は、ムチャクチャ歯医者が嫌いだ。 でも、口の中がシャレになってないので しょうがない。 |
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前歯の仮歯を作った |
かみ合わせが だんだんなくなってきた。 |
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顔の炎症は、なぜなったのかが わからなかった。 皮膚科に通うのをやめる。 |
顔の炎症は、結構厳しいものだ。バイトの面接を 落とされる。1回目の挑戦! |
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奥歯を5本抜歯。スースーするし、親知らずを取る時 「バキバキッ!」ってなった。 痛くはないが、あごがちょっと疲れた。 |
かみ合わせがきつくなってきた。 歯もだんだん溶けてくるし、ちょっとヤバイかも。 |
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奥の歯茎が腫れて、歯が見えなくなった。 これは、なんだか悪い歯の例より悪いかも知れない。 |
辛いものが敏感になっていた。 1欠片の唐辛子でも、痛くってしょうがない。 |
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気がついたら奥の方の腫れていた歯茎が気にならなくなって いた。手で奥の方を探ってみると、黒いものが? しかも膿んでいる。腫れていた歯茎が腐っていた。 |
ちょっとビビッタ。 毎日痛いせいか、その痛みが普通の感覚になっていた。 慣れとは恐いものだ。 まさか腐るまで気がつかないとは思わなかった。 腐った所をとると、下には新しい歯茎があった。 |
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両親と回転寿司を食べに行った。 マグロの赤味を食べたら(もちろんさび抜き) 喉につまさせてしまった。詰まると、飲み込もうとすると 「ぎゅるる」って音がした。さすがにやばいと思った。 |
吐こうとしても吐けないし、すごい気持ちが 悪かった。最後は吐けた。 |
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熱が下がらなくなり、入院する。 一週間ぐらい。佐久間氏に電話し、愚痴を聞いてもらった。 |
「おれ、ここから飛び降りるかも?」って。 今、思い出してみるとかなり厳しい事をいったなぁ! 佐久間氏ごめんね。そしてありがとう。 なにも言わずに聞いてくれて! 看護婦の原田さんに、愚痴を言ってしまう。 「死んだ方が楽だったかもしれない。」って! この時は、何も考えられなかったと思います。 移植後の副作用が日に日に出てくるから。 だんだん体が壊れていくのがわかるから。 |
1999年 1月元旦 |
毎年恒例の神社のお参りに行く。 この時のお願いは「再発しませんように!」と 「あわよくば素敵な恋が出来ますように!」でした。 |
この年から、佐久間氏と行く事が恒例となった。 やっぱり帰りはお泊りで日が出るまで、ゲームを やってました。 初日の出がでたら、土手に行って叫ぼうと言う事に なったのだが、佐久間氏は爆睡。 どうしようか迷って、その日は仕事だったので 起こさないで、自分の家に帰りました。 |
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この年は、絵にはまる。イラストボードを買ってきて よく、絵を書いていた。 |
書きたい絵をまず拡大コピー そしてイラストボードに 貼り付けて、ペンでなぞっていく。 なぞり終わったら、コピーした紙をとって イラストボードを光にあてる。そうすると、絵が浮かんで くるので、それをなぞる。そして、色を絵の具で塗れば 完成。そんなやり方で書いていた。 |
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兄弟によく、「俺が食わせてやってるんだから」って いわれるようになる。そういわれるたびに、私は バイトの面接にいった。バイト先ではいつも決まって 「がんばって治して」だった。 兄弟や母は、私のことを「病気というのに甘えている」 「もう治っているのに、家でゲームばっかりして」 そんな風にしか考えてないようだった。 こうゆう風に言われるたびに、自分が情けなくなった。 |
病気になる前は、バイト代の中の5万を家に入れていた。 バイトの先輩は15万中の3万、私のバイト代は7万だった。 バイト代全部取られた事もあった。 この時はさすがにキレた。母には「授業代とか返せ!」 って言われた事もある。この病気にならなかったら もう、この家にはいないだろうと思う。 (その入れていたお金が何に使われたかは書かないで おこう。あの時のことはもう忘れたい) |
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郵便局の募集に応募する。 埼玉大学へ試験を受けに行った。 |
少ないと思っていたが、行って見るとムチャクチャ 多かった。臨時バスが出るほど! 結果は落ちた。けど私は、結果よりもそのプロセスが 大事だと思います。一歩進めた気分がしました。 まだ、社会復帰ができるって思えました。 |
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口腔外科へ行くのをサボってしまった。 |
一度サボってしまうと、なかなか行く事が出来ない。 松木歯科を紹介される。 この時は、断った。 |
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佐久間氏 山田氏と一緒に夏の旅行を計画する。 当初は「富士山登頂」だった。 さすがに私は無理だろうと思っていたが 富士山に決定。まぁ、なるようになるだろうと思った。 |
計画日に大雨が降ったので、行き先を筑波山へ変更する。 正直、ほっとする。 山でのルールは、あいさつです。道りすがりの人との 挨拶が気持ちよかった。無事登頂! |
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自転車からコケて、左腕の骨にひびが入る。 |
コケたあと、佐久間氏の家に遊びに行く。 餓浪伝説系をやっていて、最初は無理だと言ったが 「こんなので折れるわけないだろ?」と佐久間氏。 私はギースを使っていた。 技を出すたびに、左がビリビリけど レイジングストームを出せたのが、奇跡だった。(笑) |
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全治1ヶ月だった。(笑) |
朝起きると、左腕が固まっていた。 自分では、腕を伸ばす事が出来ない感覚です。 移植後は、骨がスカスカ(骨粗鬆症)になってしまう 症状です。 |
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佐久間氏にスキーを誘われる。 会社の人に、空きができたそうだ。 |
視界がゼロだった。っていうか吹雪いていたから恐かった 思うように体が動かないし、ドライアイになってしまった為 目も開けられない状態。目薬も固まっちゃうしピンチ! 午後は別行動をさせてもらった。現役までは感覚を もどした! |
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3日間、全身筋肉痛!1日目は動けなかった。 |
普段から動いてないせいか、前日のスキーは いつもの20倍ぐらい動きました。 なって当然かも。 |
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松木歯科へ通うように勧められる。 小児慢性疾患が効くというのが、行く決め手だった。 |
白血病による、歯の損傷なので小児慢性疾患が効きました。 歯の治療は公費でまかなわせてもらいました。 |
2000年 |
毎年恒例の神社の初詣!やはり佐久間氏といく。 |
帰りはやはり、初日の出ゲーム! 去年できなかった、土手での叫びを実行する。 とても気持ちがよかった! |
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成人式へ行く。 何気に、タイムカプセルを掘れると期待していたが どうなったんだろう?その中のテープに「20歳になった 私へ」と言う題で、メッセージをいれました。 「20歳の私へ、はたちになりどうなっているかわかりませんが、がんばってくださいね!」と入れました。 自分にまで、励まされていたので できれば聴きたかった です。 |
成人式、すごく緊張しました。 何だかみんなかわったなぁ〜って「浦島太郎の気分でした」 人の多い所はめったに行かないので、すごく苦しかったです はじの方で座りながら、ジュースを飲みまくりました。 気を使ってくれる人もいましたし、友達にも逢えたから 行ってよかったです。私が白血病であることは、中学時代の 友達には言っていませんでした。だから、見た目は アトピー性皮膚炎!もうそれでいいやと割り切ってました。 |
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姉が結婚をする。 |
痛い想いをしてまで、私を助けてくれた姉には 幸せになってもらいたいものです。 |
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眼科へ通うのをやめ、血液科で目薬を出してもらう。 1週間でコンドロン点眼液を7本 1日一本ペース。点眼はもう、プロ級になった! 多いと思いますが、これでも我慢してです。 |
放射線による、涙液分泌低下症になってしまったので 涙の大切さが身にしみるほどわかりました。 涙が出ないと、目がとても痛くなります。 目薬をつけると、痛みがなくなるん |
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歯医者で、総入れ歯を作る。 まだ、歯茎は真っ赤!小児慢性疾患が効くうちに作った 方が良いという事になったので。 あと、はやく噛めるようにするため。 |
はっきり言って、シャレになってなかった。 口内炎を抑える薬が体にあわなくて、なかば強引に 作りました。かなりしみるし、唇のはじが切れるほど やったので厳しかったです。 |
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20歳で入れ歯かよぉ~っとへこむ。 |
20才で歯は1本も残らなかった。 歯はとても大切なので、しっかりプラークコントロール しましょうね! |
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満20になり、小児慢性疾患が切れる。 保健所に継続できないか、話を聞きに乗り込む。 |
そういうケースがなかったため、継続は無理との事。 電話でもアタックしてみたが、「お気の毒様」 正直、ぶちきれた!(怒) |
3月 |
医療費が15000円だった。いつも公費だったので いざ、値段をみてビビる。 |
採血して、診療して1週間ぶんの薬をもらって 帰るのに2万近い。何とかできないか相談するが 無理との事。「別の市では継続する事も出来るが…」 とか言っていたので役所に乗り込む。 |
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第1回 市役所突入計画発動! 目的は「小児慢性疾患の継続」 |
保険の担当の人と話をした。 全部話した結果、市では出来ないと言うことだった。 納得がいかなかったが、一時退散する。 結果、敗北。 |
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小児慢性疾患手帳を保健所に返還する。 |
20才でいきなり社会に放り出された。 ドライアイや口内炎で、日常生活すらままならない俺に どうしろと?どうする事も出来ない自分が情けなくなる。 |
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第2回 市役所突入計画発動! 目的は「特定疾患への格上げ」 |
ならば、特定疾患ならどうだと担当者とお話する。 結果は敗北。昔は、特定疾患にあったのだけど 骨髄移植があるので、削除されたとのこと。 帰りにかんがえた! 「骨髄移植は誰しも受けられる治療法じゃないんじゃないか?」って。せめて、遺伝子治療が確立するまで 待ってもらいたかった。市役所に不安を抱く。 |
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熱が38℃をキープして下がらなくなった。 なんど解熱剤を使っても、熱が下がらない。 担当医に電話をし、入院する事になった。 |
入院する日に、佐久間氏が遊びに来ていて ビリヤードを やっていた。(ゲーム)私は、38℃ぐらいなら 頭がボーとするくらいで、体には何も出なくなりました。 (慣れって奴ね!)けど、1週間も気がついてみれば 出ていたので、主治医に電話したんです。 すると、明るく「じゃあ、今来てね!」と一言。 へ、入院?マジ?ってな感じで病院に行きました。 |
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入院! 点滴中、赤い斑点がぽつぽつと出てくる。 時間がたつにすれ、体全体までなった。 これもGVHDとの事だった。 口の中が、カビで一杯になった。 初めは、小さな白い点だったのが翌日になると 口の中が真っ白!正直ビビった。 原田さんに会った。その時、前に愚痴ってしまった事を 聞いてきた。「まだ、死んだ方がよかったんでしょ!」と。 原田さんはきっと、助からなかった人たちを一杯見てきているから、私が言った言葉は許せなかったんだとおもいます。 それが痛いほどわかったから、「生きているほうが幸せです」 って、返事を返しました。原田さん、ごめんなさい! |
奥歯の鋼を取る事になり、口腔外科へ呼ばれる。 口の中がカビだらけで、なにも食べれなくなってしまったのと、舌を傷つけてしまうからです。 無理やり口をこじ開けたので、もの凄く痛かったです。 1週間入院をし、洗濯や身の回りのことは自分でやっていました。 退院の日、両親がこれないとの事なので電車で帰ることに しました。着替えがなかったので、パジャマとスリッパで 家に帰れるか、検証!ちゃんと帰れました。 同じ部屋の人に、「目の方は障害者保険で何とかなるんじゃないの」っていわれる。退院したらもう一度行ってみよう と、おもいました。 |
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第3回 市役所突入計画発動! 目的は「障害者手帳について」 |
まさか、市役所にまた行く事になるとは思わなかった。 話を聞くと、「手や足がなくなっていなくては、手帳は むり」と事。障害者にもランクがあると聞いていたので その説明すらなかった。日常生活にまで影響するのに なにもしてくれない。市役所の仕事って何だろう? コケたら、折れてしまう腕なんて…とも思ったが やめておこう。もういいや!と見切りをつける。 |
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保険のシステムがさっぱりわからない。 松木歯科は、ちゃんと小児慢性疾患の継続をやってくれているのに、なぜにガンセンターはできないの? 歯科のお金は誰が払っているの?わからないことだらけだ! |
歯医者さんは継続してるのに、OO市ったら! 正直、市役所や保健所は嫌がっているみたいだ! |
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3月から、内職を母とやっていた。 梅酒の蓋つくり!なかなか面白かった。 |
半年ほど続けた。 内職は、量にかぎりがあるため色々とやることが かわってくる。蓋つくりが1番楽しかった。 |
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昼にやっていた、「奇跡の人」というのが、名作劇場で やっていた。内容は、目や耳が生まれたときから聞こえなく ワガママし放題で育った子供に、物や言葉を教える。 というストーリだった。 |
それで触れていたのが「指文字」これは覚えた方が いいかもしれないな、と思い「手話」を勉強し始める。 指文字はマスターした!手話は、もうちょっと かかりそう。 |
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また、プー太郎に戻る。 |
全部終わると、仕事も終わり! |
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外来が2週間に1回になる。 目薬も14本。これでも足りないくらいだ! |
保険の検査官にクレームがつく。 「目薬を出しすぎではないか?」と 私からしてみれば、目薬がなければ外はおろか 家ですら、満足に歩けないだろう。 そのくらい「ドライアイ」は進行しているものだった。 |
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歯の神経をすべてつぶし終わる。 歯の治療に3年かけてしまった。まぁいいや。 |
これで、「無神経男」になってしまったわけだ! |
2001年 |
毎年恒例となった神社のお参りに行く。 世紀越えをしたのだが、あまり特別ってな感じじゃなかった。 |
初日の出がでるのが遅かった。 寒いし出ないしでいらいらしたが 家に帰るときに光を浴びたのでよかった。 |
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主治医に「慶応大学病院の小川先生」を進められる。 ドライアイの権威です。 今まで使っていた「コンドロン点眼液」が中止 ドライアイには、まずいらしい。 |
この時、ドライアイと診断され角膜も傷ついている とも言われた 。 「目の標本を取りたい」言われたが、あまりに痛そうな やつだったので「勘弁して!」と拒否しました。 「まぶたの裏側を1ミリ1ミリの正方形に切開するんだけど、5分ぐらいの手業だから」だそうだ・ |
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血清点眼をつくる。 血清点眼とは、自分の血液を分離し 血清を取り出して その血清を何倍にも薄めたもの。 涙に近い液体だそうだ。小川先生開発! |
おかげで、目薬を少し手から離してもいいぐらいに 回復した。(トイレに行く時とか!) 採血を6本取るので、手がしびれる。 |
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眼科に親がついて来た。 小川先生にストレートに「治るんですか?」と質問 その質問に、先生はこれは治りません!と返す。 まったく、何を質問してるんだ!と思った。 けれど「日常レベルまでは、回復します。」といって くれたので、まぁ、日常レベルまで戻るんだったら いいかぁとおもった。 |
この4年間、目はかなりやばかった。 朝、起きると目が乾いていて まぶたがくっついてしまう。 なので、自分の手でまぶたをこじ開けるのが日課。 だから、寝起きは最悪だった。 朝起きると「ぎゃ〜って」叫ぶぐらいの威力はあると 思う。毎日がその調子だから、慣れとは本当に恐いものだ。 けど、慣れがなければ私は生きてこれなかっただろう。 |
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兄がパソコンを買ったので、仕事に行っている時を ねらって、使いまくっている。 |
最初は全くわからなかった。どこが電源?ってな感じで! 少しずつ、わかってきた。 |
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インターネットで同じ病気を検索! 初めに見た人は、全く同じ病気の人ですでに亡くなっていた。 |
げっ!っと思いました。 この時初めて、同じ病気の人と触れたんだから。 |
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掲示板にカキコ(書き込み)をはじめてする。 親切にも、お返事をもらえた。 今まで、この病気で相談できる人はいなかったから 自分で解決するしかなかった。だから眠れない夜も 数え切れないほどあった。けれど睡眠薬は極力使わなかった。 だから、大抵の事は考えたと思う。 |
マルクとかルンバ―ルとかで通じる人って いなかったので、とてもうれしかった。 この時、慢性の治療と急性の治療法が かなり違うのに 気がつく。 この病気は普通の人には重い話だと寛解中何度も思った。 ここでは、その話が普通に聞いてくれるし 時には アドバイスをくれる事もある。 |
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ネット上での、メリットとデメリットがあることにきずく。 メリット ・ 自分の不安や悩みを聞いてくれ、時にアドバイスなども くれる事もある。 ・ ここでは、病気の話が重くない。 デメリット ・ 人を傷つけてしまったり、傷ついたりする。 ・ 医師への疑惑、病院への不安が生まれる事もある。 |
私は、医師ではないし医学的勉強もしていない。 私が教えられるのは、経験やどんな気持ちで立ち向かうか どんなことを経験し、私みたくならないように警告して あげることぐらいです。 病気は、医師があなたにとって1番何が良いのかを決め 看護婦があなたのサポートをし、あなた自身の意思によって 初めて、治療っていえるんです。 どんなに高いお金を払っても、どんなにいい薬を使っても あなたの「治そう!」って意思がないと、やっても無駄 なんです。そのための「告知」だと思います。 私は、50%って言われたけれど主治医がそこまで 助かる確率を上げてくれたんだと思います。 主治医、看護婦、薬剤師、ソーシャルワーカー、栄養士、 そしてあなたの連帯によって、50%だったものが 60、70と上げてくれるんだと思います。 癌だからってあきらめないで!やるだけやってみようよ それでも、ダメだった時は「私は生きた!」って胸を 張って逝けるから。死は恐いと思うし、私も恐かった。 何も見えないときもあった。 けれど生きることが難しくなって、初めて「生きてる」って 形が見えると思います。例え逝ったとしても、それは 「負け」じゃない。むしろ「勝った」というべきだ! 本当の負けは、自分の心を閉ざしてしまい、なにもしないで 逝くことだと思う。 これが、私の信念です。 信念は人それぞれあると思います。それを見つけ出す機会が こうゆう「病気」なんじゃないかなぁ〜なんて思います。 |
5月 |
私の経験したことをHPとして残す。 |
ふと、何か形に残したいなぁ〜と思い作り始める。 |
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HP完成♪ |
始めはページが繋がらなくて、考えさせられたけれど 色々とやっている内にページも繋がってなんとか 形になった。気がついた人もいるかもしれないが HPのTOPにカウンターが入れられなかったのは 妥協しました。だから掲示板の所にカウンターがあるので 入ってもらえるとありがたいです。(爆) |